記憶4

http://d.hatena.ne.jp/hyorohyoro/20051207の続き


幼い頃は結構何度も頭をぶつけてた気がする。
これは内緒だが、中学時代も気絶したことがあるのだ。


そんな脳震盪マスターなわたくしが
子供心に疑問に思っていたのは
「意識と記憶の境界、差異はどこにあるか」ということだ。

「何をそんなあたりまえのことを」と言うなかれ。


そもそも何でこんなことを思ったのかというと
気絶状態から戻ると、
ショック状態にあった前後の期間の記憶がすっかりないんですね。
より正確には、
その期間何をしたか、何を見たか、何を考えたか、何を意図したか
の全てが思い出せない。

俺の場合は、かわいいもんでしたが
交通事故とかで本格的に、事故前後のことが思い出せないことも
世の中には普通にあるわけです。
人はそれを「記憶喪失」といってしまうことが多い。
……ちょっと待てと。
記憶”喪失”と言うと、まるで以前は持っていたのになくしたかのようだが
本当にどんな場合もそうか?

無くした今となっては
通常どおりの意識状態にあったのに、ショックによって失ってしまったのか
そもそも元々意識が存在しなかったのか
確かめ様が無いではないか。


我思うゆえに我あり。
でも、我思うからって我が「あった」ことの証明にはならんのだ。
つまり「記憶がある」から初めて「自分には意識(意志)があった」
という事実を認識できるわけで、
「記憶がなければ」”今”より前の自分に意識があったどうかなんてわからない。


冷静に考えてみれば
記憶喪失状態にあった人の記憶が復帰する事例から見ても
記憶喪失=通常どおりの意識状態にあったのに、ショックによって失ってしまった
であることはほぼ間違いないわけですが
小賢しかった子供時代には上のようなことを考えていたわけです。
まあ意識の存在証明のために、記憶の存在が不可欠という考え事体は、
それなりに正しいかなと。

で、こっから論理が多少飛躍するんですが
存在を証明できないということは存在しないことに等しい。
ということは意識の存在には記憶の存在が不可欠。
一方で、意識が無い状態を記憶することがありうるかというと
無さそうな気がする。
ということは記憶の存在には意識の存在が不可欠。


これ、意識と記憶って同じ物でもよくね? みたいな?(半疑問調)



例えば誰かが、俺に向かって石を投げたとする。
その状況で、意識の動きは
1.うわっ石
2.やべっ避けなきゃ
3.あぶなかったー
4.投げたの誰やねん!
ってなもんだ。

俺が「やべっ避けなきゃ」と思ったのと「実際に避けた」のは
ほとんど同時でしょう。
じゃあ「避けなきゃ」と思ったから「避けた」のか?
YESと答えたいところだが…本当に?
これが100mくらい遠くから投げられた石ならば
「やべっ避けなきゃ」と考える暇もあろう
しかし。この距離をだんだん短くしていったら、いつか
『「避けなきゃ」と”思っていたら”避けるのが間に合わなくなる距離』
になるだろう。
実際には咄嗟に避けてから「あー危なかったー」と思うのではないか。
すると、今までの「避けなきゃ」という意識は
必要なかったんじゃね?
そして「避けなきゃ」という思考は
長い時間経つと忘れ去られる(http://d.hatena.ne.jp/hyorohyoro/20051016参照)


こっからは完全な戯言だ。
「避けなきゃ」という意識は
自分の「避けた」という行動の直「後」に発生するものである。
危険認識→回避 という動作の流れを
「論理的に自分の意志で行った」と自分を錯覚させるためにつくられる
超短期記憶である。


この戯言に対する反論として
「数学の問題を解いているときのような明確な思考は
明らかに記憶とは違うものだ」
というものが有り得るでしょう。


それに対する再反論は…ない(笑)


つづく