二割の自由

毎日の生活で本当に自由に振舞ってよいのは
せいぜい二割くらいじゃないかというお話。


誰だって自由が好きだ。
命を賭して自由を得ようとする人もいる、
自由を掲げた国もある、
自由が無ければそれこそこの世は味気ない世の中だ。


けど、好きであることと素晴らしいことは区別して考えなければならない。
手放しで自由を賛歌するわけにはいかない。
無制限の自由経済が不健全な構造をつくるように(そのために例えば独占禁止法がある)
自由な発言が時として誰かを傷つけるように。
完全な自由は、非常に怖いものかもしれない。


では、個人の仕事、あるいは日々の生活ということにだけ注目したとき
自由な活動、自由な発想、自由な時間はどれだけ必要だろうか?
ここに二つの例がある。
ひとつはGoogle社。
http://blog.japan.cnet.com/umeda/archives/001064.html
Google本社では
社員に、業務時間の20%を自分の仕事と直接関係ない「自由研究」に
あてることが奨励されています。
この「自由研究」からうまれたアイデア
GmailGoogle Newsになっているのだという。
爆発的に増える情報を整理し、どこからでも検索可能に~Google・マグラス氏


もうひとつはこれである。
オシムの言葉―フィールドの向こうに人生が見える
オシムはサッカーの監督(現在はジェフ千葉の監督)。
あのレアルマドリードにも誘いを受けたほどの名監督(ちなみに断ったらしい)。
今でもクロアチアで、
「代表監督にふさわしいのは誰か」というアンケートをするとダントツで1位を取る。
この本は歴史的なことも含めて非常に深い話がたくさんつまっているのだが
今回はこの言葉に注目する(正確な言い回しを再現してません)
ファンタジスタはチームに二人、多くても三人までしか必要ない」
「自由にプレイする人間のために走り回る人間がいなければならない」


サッカーというのはチームプレーが非常に重要で
かつ、試合中に監督があまり選手に関われないスポーツだ。
つまり選手11人がひとつの独立な有機的活動体をなしているようなものだと思える。
その有機体のなかで自由に活動して良いのはおよそ二割の部分だけなのだ。


前者の例は
「優秀な企業では、二割の自由が推奨されていて
そのことが良い結果につながっている」ということを
後者の例は、
「優秀なチームでさえも、二割を超える自由は有害である」ということを
述べている。


つまり、ぴったし二割の自由こそが大事なのだ。


これを日常に当てはめてみよう。
単純に時間換算してみる。
食事睡眠などをのぞいた活動時間がおよそ10-15時間であるとすると
一日のうち2-3時間は自分の好きなことに費やしてよいことになる。
すると残りの時間が7-12時間となり、
これは仕事に費やしている時間にほぼ等しいともいえる。
また仕事している時間のうち二割を「仕事に関係ある自由な活動」にあててよいとすると
やはりおよそ1-2時間は「自由研究」が可能ということになる。


また、一年単位で考えると、自由な時間は365*0.2=73日。
人間、一年のうち二ヶ月くらいは自由に遊ぶべきっちゅうことですね。
週休二日制は休み過ぎととらえるべきか
それとも、土日は休養すべき時間であって、一切活動すべきでないととらえるべきか…。
また一生が80年とすると16年は無駄に過ごしても良いよーということになる。
そう思うとすごい気が楽になるのであった。
例えば自分が24歳ならそのうち4年間は自由に過ごしてよいのだ。
なんて素晴らしい自己肯定。


あなたも二割の自由、どうですか?





この話、友達に「Googleに詳しそう」と誉めて(?)もらったので
何かそれっぽいことを書こうと思って書いた話なのでした。
よく考えたら「Googleに詳しい」の意味を取り違えているような気がした…。