事務処理の増大が負担となる

本質が分かっていない

症例報告のたびに患者さんに説明して同意をとって報告するだけの外来時間がないし書類申請が面倒。

残業も診療ならまだ患者さんのためと割り切れるが、書類の山を裁可するためにこの仕事を始めたわけじゃない。

大学の研究者と全く同じだなと思った。
自分の周りを見たり、知り合いから話を聞く限り
優秀な研究者が予算を沢山とってきたとすると
その研究者は、かなりの時間を事務処理に費やすことになります。
研究をするために予算をとってきても
その本人はその研究に従事する暇がなかったりする。
結果として、一人当たりの事務処理の量を最低限に抑えるために
自然と研究グループが肥大化する方向に行くような気がしますね。
大きな予算を当てて、それを大勢で分配するという。
それが良いか悪いかは別問題ですが。


この問題の根源は↓のような
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20071023/138300/

糸井 見回ったり、管理したり、何が正しくて何が間違っているのかって仕事は、役人と天下りの元お役人たちとで回していたわけですよ。現役の官僚としてルールを決めたり摘発する側にいた人が、今度は民間に場所を変えて、それが順法かどうかを調べる人になる。こうした仕事のやりとりが、減るどころか、もはやあらゆる業界に存在している。

 この仕事のやりとりの何がすごいって、そこから何も生まれてないのがすごいんですよ。

 まず、「ルール」っていう、わけの分からない魔物がいて、その魔物のスケッチを描けると仕事になる。「魔物と遊ぼう」でもなければ、「魔物から逃げよう」でもなければ、「魔物をとっつかまえよう」でもなければ、「新しい魔物をつくろう」でもない。

「管理のコストを誰が払うのか」という問題につながっていくのでしょう。
管理のコストを必要なものと割り切った上に
研究者や医者が書類処理の専門家を雇うという分業作しか残ってないのだろうか。
でもそれは結局新たな管理者を生んでいるだけなんだよな……。

味覚と興味

友達「こないだ焼肉を食べにいったら、びっくりするくらい美味しくてさ」
自分「ふーん」
友達「……。お前って”食”に大して感動がないよね」


俺は食べることにあまり頓着もないし
感動もほとんどありません。
いや、おいしいものは好きだし、空腹も嫌いで
三食取るのだけれど。
美味しさのハードルが低い上に、
すぐ美味しさのレベルが飽和してしまっているというか。
とりとめもないはなし。

めがね

初めてメガネをかけたときのことを覚えている。
景色が良く見えたこと、遠くの人の顔が良く見えること。
とくにその夜は星が沢山みえた。
もっと目のいい人は、もっと沢山の星が見えているのだろうなと思うと
それだけがちょっと悔しかった。


というわけで最近メガネを変えたのだが
誰も触れてくれない。
似たようなメガネを選んだ自分が悪いのだが。
というか他人のメガネなんて、普通気にしないよなー
俺も、周りの人がメガネを変えても絶対気が付かない自信がある!

アイデンティティー2「故郷や家族の懐かしさ」

故郷はなぜ心地よいのか。
それは故郷が「変化しない・いつも同一であるもの」の象徴だからではないか。
故郷は自分と同一視されうる、自分の延長にあるものだから懐かしさを感じるのだと思う。
だかららこそ故郷は変わってはいけないし、
「近頃はここらも変わったな」なんて台詞をはくフィクションの中の人間は
みな寂しそうなのだろう。
家族も同じように「変化しない・いつも同一である関係」なのだと思う。
家族や故郷だけでなく、共同体というのは基本的に「変化しない・同じである」からこそ
そこに属する意味が出てくるのではないかと思う。

アイデンティティー1「どこまでが私か」

自分はどこまでが自分なのだろうか?
あるいは、どこからが”非”自分なのだろうか。
こんなことを考えてみる。
衣服はあなた(に含まれる)だろうか? 
ほとんどの人間はこの問いに「いいえ」と答えるだろう。
こんな布切れ一枚が、かけがえのない私の一部のわけが無いと。
それでは、その腕はあなた(に含まれる)だろうか?
多くの人間が「はい」と答えるだろう。
なぜなら、私は私の意思を以ってして自由にこの腕を動かせるのだから。


では、その爪は、その髪は、その皮膚は、その血は、その臓物は、あなたか?
その排泄物? その声は? その心は?


私と非私の違いは、ただ一つ。
変わらないか変わるかだ。
より正確には変化のスピードの違いだ。
あなたにとって、変化しない・いつも同一であるものが「私」であり
あなたにとって、交換可能なもの・常に変化しうるものが「非私」だ。


もしも、同じ服を常に着ているような状況下で生まれ育ったならば
人は衣服を自分の一部だと認識するのではないだろうか。
自分と非自分の境目は、その人間自身が決めることなのだ。